私の想い
My Story
いしぐろ個別塾代表の石黒峻登(いしぐろしゅんと)です。
このページでは私が「いしぐろ個別塾」をどのような想いで開校し、生徒や保護者と向き合っているかをお伝えしています。
学生時代を振り返ると、自分の本心を無視し続ける日々を送っていたと思います。
小 1 で地元のサッカークラブに入りました。
サッカーを始めたのは、サッカーが好きだったからではなく、親に体験練習に連れて行かれた際に、
「親は私がサッカーをやることを望んでいるのだろうな」と、子どもなりに空気を読んだからでした。
練習や試合では、HSP気質というのもあって、サッカーが本当に好きで上手な子に自分のミスを厳しく指摘されるたびに深く傷つき、とても憂鬱でした。しかし、やめたいと親に言う勇気がありませんでした。
中学入学時には、テレビで放送されていた「テニスの王子様」の影響で、テニスをやってみたいなと思っていました。
しかし、当時の私は新しいことを始めることへ、強い恐怖を感じていました。中学から始めて、練習についていけないのでは?練習しても上達できないのでは?と自分の可能性を全く信じられなかったのです。
嫌々でも 6 年間続けてきたサッカーの方が安全だと思い、結局部活はサッカー部に入部しました。
部活では友達ができ、走り込みで体力もつき、小学生の時ほど嫌々練習に行っているという感覚は強くなかったです。
演じ続けた日々
ただ 6 年間も嫌なことを続けた日々が体に染みついていて、本当はやりたくてやっているのではないという気持ちが、しこりのように心の奥底にはありました。
そんな気持ちを周囲に悟られないように、自分を演じていました。
高校生になる頃には、「何かをやりたい」という気持ちが湧いてこなくなるくらい感覚が麻痺していってしまっていたように思います。他の選択肢を考えられず、高校でもサッカー部に所属しました。
中学の頃と違い、上手い人も多く、自分のミスを指摘されるたびに傷ついていました。
高校までしか通用しなかった生存戦略
サッカー自体が楽しい、もっとうまくなりたい、点を決めたいなど、例え下手でもそういう欲求が根っこにあれば、練習を前向きに捉えて、自分なりに楽しむことができたと思います。
ですが、私の場合は、とにかくチームメートや監督、コーチから怒られたくない、ミスをしたくない、ミスをしたらどうしようということばかりを考えていました。
また、そういう自分の弱い部分を悟られないように自分を演じてもいました。
なぜ小 1 ~ 高 3 の 12 年間も、自分の本心を無視して、サッカーをやれたのか? 後から振り返ると、それは自分を守るためだったと思います。学校という社会で、何とか自分自身を保ち、やりくりしていくための戦略だったのだと思います。
実際、スポーツ(部活)も勉強も周りの人から見たらよく頑張っているように映っていたと思います。
その結果、部活のキャプテンを任されたり、クラスや学校のリーダーに選んでもらったり、高校入試では推薦をもらえたりと、ご利益は確かにありました。
しかし、そんな戦略が通用したのは大学入学まで。
自分の本心を無視し続けてきた結果、大学入学後には、自分の中にあるワクワク感や、何かをやりたいという欲求が全然わからなくなっていました。
小中高と他者の評価ばかりを気にして、演じ続けてきたことで、中身が空っぽの自分ができあがってしまっており、何に対してもやる気が持続しない状態になってしまっていました。
低い自己肯定感を学業で埋め合わせようとする
他方、学校の勉強は必死にやってきました。小中高と前述のように演じて生きていた結果、自己肯定感がどんどん下がっていきましたが、その埋め合わせをするかのように、勉強は余計に頑張っていました。
学校の勉強を頑張っていたのは、楽しいからでも、将来のことを考えていたからでもなく、あくまで自分を守るためにやっていたに過ぎません。テストや受験というわかりやすい結果に依存し、アイデンティティを保とうとしていたのです。
学校の勉強というのは、1 つの「問題」に 1 つの「正解」が用意されています。自己肯定感が低かった私にとって「正解」が用意されているということは大きな安心材料でした。
大学受験については、高校卒業後に 1 年間予備校に通わせてもらい、何とか第一志望の東京大学に合格できました。合格した瞬間は歓喜し、合格発表の会場でアメフト部の方々に胴上げをしてもらったのはいい思い出です。
しばらくはその余韻に浸っていましたが、それまで自分を守るためによりかかってきたもの、すなわちテストの点、順位、偏差値、受験といったものがなくなった私は「燃え尽き症候群」となり、今度は何をよりどころにしていけばいいのだろうかと、焦燥感と虚無感に苛まれるようになりました。
「燃え尽き症候群」からもがく大学時代
入学後は何か新しいことをやってみたいなという漠然とした思いがあっても、素人の私がやったって下手くそで誰も認めてくれない、そんなものはやったって意味がないと思っていました。テストのように正解が担保されていないものをやることがとても怖かったのです。
それまで、他者の評価という外発的動機でのみ動いてきていた結果、そのようなマインドになってしまっていたのです。
大学3年生の時に食べることが好きというだけの理由で農学部に進学しました。
(東大では大学入学後1年半後に進学する学部を決定します)
当時は、農学部なのでとりあえず農業の現場を知っておいた方がよかろうと思い、日本各地の農業現場に足を運び、作業を手伝わせてもらったり、取材をさせてもらったりしました。
また、栽培の基礎を学ぶために大学を休学し、園芸専門学校に国内留学したりもしました。
当時の私は、周囲の人間には農業を志す熱い若者のように映っていたと思います。実際、ご縁があって農業を志す若者として、NHKに取材されてテレビで全国放送されたこともありました。
今思うとあちこち動き回って自分の価値をわかりやすく保証してくれるものを必死に探していたように思います。
それまでの生き方を見つめ直す
大学卒業後には北海道に農業研修に行ったのですが、過労のために肉体的にも精神的にもダウンしてしまい、研修を途中離脱せざるをえなくなってしまいました。
当時は休みを全然くれなかった受け入れ先の農場が悪いんだと思っていましたが、そもそも下調べもろくにせずにそういう場所に飛び込んだのは自分でした。
自分の体力を過信してペース配分を考えずに、与えられた仕事を終わらせては次の仕事を要求するということをひたすら繰り返していたのも自分でした。少しでも作業が速いところを見せて、認められたかったのだと思います。
実家に戻って休養していた時に、信頼できる心理カウンセラーに出会うことができ、カウンセリングに通いながらそれまでの自分の生き方を見つめ直しました。
他社評価ばかりを気にする考え方、生き方を自覚し、少しずつ本心を大事にできるように行動と思考を変えていきました。
社会復帰からいろいろやってみる
3 ~ 4 か月ほどで働く意欲が出てきたので、名古屋のゲストハウスでアルバイトを始めることにしました。
働いた対価としてお金をもらえるようになったことで、少し自信を取り戻しました。
そこで数か月勤務すると、現場の事情を考慮しない会社の方針や上司からの理不尽な指示に疑問が出てきて、怒りすら覚えるようになりました。
しかし、下調べをよくせずにその会社・職場を選んだのは自分だったわけで、会社がわかってない、上司がわかってないと文句を垂れていた自分は未熟だったなと思います。
夜勤の仕事が思っていた以上に負担だと感じたこともあり、もう少し無理のない環境で自分の得意を活かして働きたいと思うようになりました。
得意と言えるものはなんだろうかと考えてみたところ、高校までの勉強は人並み以上にできていたことを思い出し、大手個別指導塾で塾講師として働くことにしました。そこで、足かけ 5 年ほど勤務しました。
その後、ご縁があって、大手通信会社のグループ会社でスマート農業事業のスタッフとして1年ほど勤務しました。
IT系のスキルはまるでなかったのですが、農学部出身であるということや、大学時代に各地の農業現場に足を運んでいた経験などから、農業生産者側の視点要員として起用してもらえました。
やがて、「会社に依存せずに自分の力で食っていけるようになりたい」と思うようになり、古物商の許可を取って自宅で物販業を始めました。
ビジネスの基本がつまった物販業で試行錯誤の日々を送ったことで多くの学びがあったのですが、性に合わないと感じてこちらは半年ほどで辞めました。
外には答えがないことを悟る
その後、次に何をやろうかと考えていた時に、何を始めても長続きしないなということを直感しました。
それはなぜだろう?とじっくり考えてみると、やはり納得感がないからだという答えに行きつきました。
では、
「どうすれば納得感を持って次の道を選び、充実感を感じられる仕事ができるだろうか?」
考えた末、外に答えを求めているから納得感が得られないのだと気づきました。
これまで研修生、バイト、社員、いろいろな形態で働いてきた中で、会社やチームの方針に疑問を抱いたり、自分で始めた事業でも何でこんなことをやっているのだろうと虚無感を感じたりすることがよくありました。
考えてみれば、これは当たり前でした。なぜなら、どのような方針なら賛同できるのか?どんなことに意義を感じるのか?そういった問いを自分に投げかけた時、当時の私には答えられなかったからです。
自分のことがわかっていないんだ!ということをその時やっと気づきました。自分のことがわかっていなければ、どんな職場でどんな仕事をするのが自分にとってハッピーなのかわかるはずがありません。
それまでは、世の中には自分がやりがいを持って快適に働ける「良い」環境がどこかに用意されているに違いない、俺を使いこなせない世の中の方がおかしい、そんな他責で自己中心的な思考をしてしまっていたように思います。
本気で自己分析をする
自分のことがわからない状態で外に答えを求めてもダメだ、ここは一度立ち止まって自分の内面を見ようと思い、自己分析を徹底的にやることにしました。
自己分析や自己理解に関連する本を読み漁り、動画を視聴し、その中で紹介されている診断テストやワーク等を片っ端からやりました。
自分のことなのに、というより自分のことだからこそ、自己分析を一人で進めるのは難しいなと感じましたが、ご縁があって、自己分析のフィードバックをしていただける方に巡り合うことができました。
その方にメンター(壁打ち役)となってもらい、自己の深堀をしていきました。
そうして、自分はどんなことを大切にしたいのか、どんなことを自然とやってしまうのか、どんな分野に興味があるのかといったことが徐々に明確になっていきました。
それをまとめたのが下記になります。
●気づき:自己への気づき、世界への気づき(好奇心)
●誠実:一人ひとりと誠実に向き合いたい
●論理・合理性
私の得意なこと
●他者から信頼を得る
●文章でわかりやすく整理をする
●本質を捉える
●可能性を予測して事前に対応策を考える
●目標達成に向けて全力を尽くす
私の好きなこと(興味)
●教育:自律のための教育
●言葉:本質を表現するためのツール
●本質:人の本質・本音。世界の本質(目的と手段、事実と感情、抽象と具体など)
私の大事にしたいこと(価値観)
なぜ「いしぐろ個別塾」をやっているのか、
私のビジョン
そして自己分析を踏まえて導いた私のビジョン(=人生で成し遂げたいこと)を一文で表すと下記になります。
自分で考えて行動し続けられるように人々をサポートすることで、人々がありたい自分でやりたいことをやれるようになる
このビジョンを実現する一つの手段として、現在「いしぐろ個別塾」を経営しています。
自分で考えて行動できるようになるには、やはり自分のことを知る、すなわち自分が大切にしたいこと、得意なこと、興味のあることなど、自己について理解することが土台になります。
そして学校の内外での様々な実体験というのは自己理解のための貴重な材料になります。
自分の本心やワクワク感よりも、他者からの評価ばかりを気にする学生時代を送り、自分の軸がはっきりしないままに職を転々とし、迷走してきた自分だからこそ、
やりたいことをやりたい、反対にやりたくないことはやりたくないと素直に言えることの大切さを熱を持って伝えていけると確信しています。
もちろん、やりたいことをやろうと思った時に、やりたくないことをやる必要が出てくることは人生で多々あるでしょう。
その試練を自分の努力で乗り越えるというのは一つの方法です。
ですが、それ以外にも自分より得意な人を探してやってもらう、テクノロジーの力で攻略する、そもそもやりたくないことをやらないですむ別ルートを考えるなど、対処の仕方はいくらでも存在します。
試練に直面した際にも自分で考えて行動できる力があれば、力強く生きていけると信じています。
親がこう言っているから、先生がこう言っているから、社会とはそういうものだからと受動的になるのではなくて、私がこうありたいから、これをやりたいからと能動的に行動できるように生徒をサポートしていきます。
そのために毎授業生徒に「?」が「!」に変わるような「気づき」を提供できるように日々精進していきます。
最後までお読みいただきまして誠にありがとうございました!